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【閲覧注意 ♯5】トラウマは怒りと生きるパワーをくれる(精神疾患)

これは、過去のトラウマの記録です。
この記事は、見ていてしんどくなるような内容が含まれています。調子の悪い方や、暗い話を聞きたくない方は、ここで引き返してください。

大学中退後の母との暮らしについてお話しします。

高校を卒業した後、大学に入ったのですが、僕は燃え尽きていて勉強ができなかったし、僕の精神疾患もどんどん悪化していきました。

精神疾患は身体症状もよく表れます。

背中がとにかく痛くて、大学の90分の授業を座って聞くことができず、授業に出席できませんでした。とにかく一日中眠たくて、朝もちゃんと起きられなかったので、授業に遅刻したり欠席したりは頻繁にありました。

そして、吐き気がとにかく酷かったです。

食べ物の絵を見ただけで気持ち悪くてえづいていましたし(カツ丼が特に苦手でした)、食べると反射的に嘔吐していたので、嘔吐物を口腔内にとどめたまま、なんとかトイレまで我慢して吐いていました。頻繁に嘔吐していたので、吐きそうな時に自分なりのリズムのとり方を使って、吐かないようにする技術は身に付きました。

「ガンバ亭」というセルフうどん屋さんのうどんだけは食べれていたので、そのうどんだけを食べていました。

夜も眠れず、昼夜逆転していました。

他にもいろんな身体症状があるのですが、それに加えて、精神的な症状がメインであったので、とても大学の授業に出たり、そこで人とちゃんと交流できたりするような状態ではありませんでした。

単位をボロボロ落としていました。親切な誰かが教えてくれましたが、僕の成績は大学の1番下から2番目ということでした。次第に僕は、大学でもどこでも反抗的な態度をよくとるようになり、斜に構えた人間になっていきました。

ちょうどこの頃、母と父が離婚しました。

理由は、「一緒にいては経済的に生活が出来ないから、離婚して、父は自己破産をし、僕と母は生活保護で一緒に住むことでやっていける」ということでした。

生活保護を受けるので、大学という贅沢品は捨てないといけないようでした。それでなくとも、精神疾患があった僕は10年かけても卒業出来なかったと思います。

中退することを、大学の職員に伝えた時「辞めなくても、休学という手がある。せっかく入ったのにもったいないよ」と教えてくれました。

休学の最長期間は4年と聞きました。たった4年で僕の調子が良くなるわけがないと思っていたので、中退することに迷いはありませんでした。(そして、それはその通りで、4年後も大学に通えるような体調ではありませんでした)

母との二人暮らしが始まりました。

母も僕も精神疾患が酷い時期で、この時期が僕の人生で一番どん底の時期でした。

二人とも、精神の状態が悪かったので、お互いに余裕がなく、日常のほんの些細な出来事でお互いに感情が爆発して、怒鳴りあったり、罵りあったり、憎みあったり、僕は母に手をあげたりして、家の中はめちゃくちゃでした。

この時の二人の関係を、共依存と呼ぶのだと思います。

お互いに、心の奥底ではお互いのことを好きだという気持ちはありつつも、何と表現できるのか分かりませんが、そんな気持ちは精神疾患患者同士の激しい感情の爆発の中で、無に散っていきました。

当時、僕は母を苦しめるような言動がやめられませんでした。

母の悲しい顔を見るのは、心がズタズタに引き裂かれるほど苦しい、でも、今になって気付いたことですが「こんなになるまで僕を苦しめた母を苦しめてやりたい」「許せない」「苦しみを味あわせてやりたい」という気持ちが無意識にありました。

でも、母を苦しめるような言葉や行動をした後(母はその言動に傷ついて暴れたり叫んだりしますが)、僕は言葉では表現しきれない程の強烈な罪悪感に襲われて、気が狂いそうになって、僕も暴れました。(そんな僕を見た母も狂い叫んで、それを見た僕も更に狂って、叫んで「黙れ、この××が!」と母に手をあげる、という悪循環が延々、毎日、続きました)

罪悪感を感じるというのは、元々、僕は母が大好きだったからです。母が好きなのに、こんなに母を苦しめるようなことをしてしまう僕がいて、僕は僕を全く制御できませんでした。

言葉では伝えきれませんが、この時の僕の心(母の心も)は、どう表現したらいいのか分かりませんが、すでに壊れていました。翌日は更に心が壊れました。翌々日はもっと。心が壊れ続けていきました。

印象的だったエピソードを一つ覚えています。

その日は僕の誕生日でした。母が、誕生日プレゼントとして、僕にオシャレな傘を買ってくれました。嬉しかったと思います。その傘を持って、外を二人で散歩しました。

ですが、会話の中で、些細なことで口論になりました。そして、激昂した僕は、その誕生日プレゼントとして貰った傘を、母の目の前でアスファルトに何度も叩きつけ、放り投げました。

傘は無惨な姿になっていました。骨組みがバラバラになり、折れて鋭く尖った骨がオシャレな傘の生地を何箇所も突き破っていました。無惨な姿です。本当は大好きな母から貰った、贈り物。それを、こんな姿にしてしまいました。罪悪感で気が狂いました。

母も、泣いていたと思います。悲しそうな顔をしていたかな?叫んでいたかな?あまり覚えていません。とにかく罪悪感が酷くて、心が張り裂けそうでした。耐えられませんでした。

そんな日々が続き、僕の体調もより悪化していきました。半年間、寝たきりになりました。

トイレ行く時以外は身体を起こせず、水を飲んでも吐き気で嘔吐していました。食事もとれないので、母の友人に車で病院まで送ってもらい点滴で栄養をとっていました。お菓子のグミだけは、なんとか食べられていたので、点滴とグミで生活していました。

身体を起こせないので、自然と禁煙もできました。タバコを吸う元気もありませんでした。

寝たきりが治った後も、母との泥沼の生活は続いていました。

一時期、僕の主治医が2人を引き離した方が良いということで母を強制入院させてくれました。時には、僕が母から逃れるために病棟に入院することもありました。

最終的に、僕は母を残して、父の家に引っ越しました。ここら辺の詳しい記憶は曖昧で覚えてないのですが、全く干渉してこない父との生活は楽でした。体調も少しずつ良くなっていきました。その間、母が見つけてくれた生活訓練所「きらりの森」というところに通えるようにまでなりました。

(母を残して離れる、ということに物凄く抵抗を感じていました。暴言や暴力を振るっていた僕が言うのはおかしく聞こえるかもしれませんが、母が心配でした。一人でやっていけるだろうか、自殺していないだろうか、心配と不安で胸がキューっとなりながらも、耐えていました)

そして、体調が少しずつ良くなったといっても、一番悪かった時と比べてのことなので、相変わらず精神疾患には振り回されていました。ただ、母との負の化学反応が起きないということが、大きな助けになりました。

現在、母は新しい旦那さんと結婚し、広島県で暮らしています。母には「調子の悪い時には僕に連絡しないで欲しい」ということを伝えています。母が広島に引っ越したばかりのころは、僕に泣きそうな声で連絡してきたりして、僕は感情が溢れて、自宅で暴れて叫んだりしていました。

ですが、母親に「お母さんは今まで僕にこういうことをしてきた」と今までされたことを箇条書きで書いている紙を読み上げたり、「お母さんがのことは好きだけど、お母さんに泣きそうな声で助けを求めてこられると、僕は感情が頭で溢れて、頭がおかしくなる」ということを何度も真剣に説明しました。

母親は「今まで、りゅうやに甘えてごめんね。お母さん、頑張るからね」という返事を返してくれました。その言葉の通り、最近は調子の悪い時には連絡をしてこないようになり、僕の心の平穏は保たれています。

僕は昔から変わらず母が大好きなので、時々電話して話したりしています。いつも、距離感には気を付けて話しています。

「お母さんのしんどい表情や声を聞くと僕は頭がおかしくなるけど、それとは別に愛しているからね」ということを定期的に伝えています。

お母さんも、恵まれない環境の中で育ったお母さんだけど、それでも僕を幸せにしてあげたいと強く思っていたことを知っていたからです。

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著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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