僕はきれいごとが大っ嫌いだ。
現実を知らないで理想論を語る人間に、虫唾が走る。
きれいごとを語っていられるその人間の置かれた環境が、そもそもどれだけ恵まれているのか、その人は理解しているのだろうか。
どのくらい理解しているのだろうか。
世の中の物事の複雑さを、その人間はどこまで見通せているのだろうか。
腹が立つ。
と、思っていた。
きれいごとを言う人間を心底軽蔑していた。
だけど、きれいごとを言う人の中には「この世界の汚い部分をあまり見ずにこれた人」もいるだろうけど、「現実を深く知りつつも、それでもきれいごとや理想論を信じようとする人」もいるんじゃないかと思った。
伊藤亜和さんの言葉
なぜそう思ったのかを話したい。
ある日、Youtubeで伊藤亜和さんという文筆家のインタビュー映像を見ていた。(最近はこの人のポッドキャストをよく聴いている)
彼女は話の中で「話し合えば人と人が理解し合えるとか、みんなが知る平和な世の中をつくれるっていうのも、私は信じてる。それと全く同時に、この世界は絶対に闘いだというふうにも思っている」と語っていた。
そのとき僕は「えっ、話し合えば人と人が理解し合えるとか、みんなが知る平和な世の中をつくれるっていうのを信じてるんや!」と衝撃を受けた。
理不尽に腐る日常
僕は家で働いているし、いま住んでいる栃木に友人はいないので、人と接することがほとんどない。
パートナーは外国人なので、日本に住む外国人が体験する、日常の些細な「おかしいんじゃないか」と思うことを、パートナーとしての立場からいつも考えている。
(ちなみにパートナーは全く気にしていない。外国に住むとはこういうもんだと理解している)
そんなふうに理不尽なことを、部屋の中で考えれば考えるほど、イライラしてきてしまう。
そんな毎日を送っているので、妙に現実的な考えにばかり毒され、冷めた現実主義者のようになっていた。
現実を見ることは大事だけど、現実ばかり見ていたら自分が内側から腐ってくる。
そんなときに伊藤亜和さんの言葉を聞いたから、びっくりした。
きれいごとは耐毒性がある
びっくりしたのと同時に、自分がどれだけ陰湿な気分にひたっていたのかにも気が付けた。
人間がモグラだとしたら、みんな自分の穴に隠れていると思っていたけど、外を覗いてみると案外みんな穴の外でワイワイ楽しくやっている光景を見て、自分の価値観が揺らぐような感覚だった。
そうか。
もしかしたら、現実に毒されて自分が内側から腐ってゆくのを防ぐために、人はきれいごとや理想論を信じようとしているんじゃないかと思った。
自分を守るために。
きれいごとを語ることの美しさ
もちろんこれはバランスの問題で、現実の問題を解決するには現実を見ないといけないから、100%きれいごとの世界にいればいいというわけでは全くない。
だけど、「本音を言えよ!」という風潮が強い今の世の中で、生きづらく感じているのなら、きれいごとの世界を取り入れるのも大事なのかもしれない。
だから今の世の中においては、きれいごとは自分が腐りきらないために必要なことだと思う。(きれいごとが主の世の中になれば、その逆になると思う)
僕には、きれいごとを言う友人がいる。
でも彼は、たくさんの経験をして、汚いものもたくさん見ていると思う。たくさん傷ついたし、世の中の闇の部分も知っている人だ。だけど、それでもなお、きれいごとを信じ、ときにそれを人に伝えようとする彼の姿勢は、濁流の川に静かに立つ木のようだと思う。
簡単に人が流れに飲まれていく中で、流れの中に立つその木を見ている人がいるかもしれない。
その姿勢に感じることがあるかもしれない。
世の中の汚さを嫌というほど味わって、それでも、というのか、だからこそ、というのか、きれいごとを信じようとする人には考えの深さと、その深さと同じくらいの強さがあるんじゃないかと思う。
僕はきれいごとを言う人間を見下していたけど、これからはきれいごとを少しだけ信じたいと思う。




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