人の優しさに懐疑的な僕は、二週間前にとある記事を書いたものの、その記事を投稿するのを思いとどまった。
その記事は、僕にとってはまぎれもなく真実ではあるけれども、投稿してしまったら、それが事実として確定してしまうような気がして怖かったからだ。
その、没にした記事を、ここに載せてみようと思う。
優しさは存在し得ない
誰かが優しさを見せるとき、対象は限られている。
全ての人に優しくいられる人なんかいない。
誰かが僕に優しくできるのは、彼らが僕を彼らサイドにいると思い込んでいるからだ。(そして、自分が彼らサイドにいられるのは、たまたまの偶然でしかない)
そして僕が、彼らから優しさを受け取るとき、その反対のことを思う。
この人は僕の反対側のサイドには、反対の態度をとっているのだ。
だから、優しさを素直に感じることはできない。
全ての優しさは偽物の優しさだ。
だから、人と接する時に、それを自覚することが大切だ。
だけど、偽物の優しさがいらないわけではない。
たとえ偽物であっても、優しさを受けずに生きてはいけない。
だから、偽物であっても、生きていくためには優しさが必要なのだ。
優しさには偽物か、限りなく本物に近い偽物しかない。
だから、人は孤独を感じるのだ。
人と人は支え合うことはできない。
支え合っていると思っているのは、相手に投影した自分の幻想、つまり自分なのだ。
「真」のぬくもりが欲しいと思っても、それは叶わない。なぜなら、本当の優しさは存在し得ないからだ。
だから、孤独な世界で、偽物の優しさをうまくやりくりしながら、水泳で息継ぎをするように、次の息継ぎまでの十分な偽物の優しさを補給し、なんとか生き続けるしかないのだ。
二週間前はこんな気持ちだったけど(いまもこんな気持ちだけど、二週間前はこの気持ちが強かった)、今日は、精神疾患の患者でもあり、精神科医でもある夏苅郁子さんの「人は、人を浴びて人になる」という本を読んで、人の優しさを素直に、そのまま優しさと感じられたら、どんなに素晴らしいんだろうと希望を感じたから、没にした記事を訂正する形で、この記事を書いた。
二週間前、没にした記事の内容を、自分のパートナーに話した。
すると彼は、僕の話を否定するわけでもなく、最後まで静かに聞いてくれた。そして「ふーん、りゅうやはそう思ってるんだね」と答えた。そこで、この話についてどう思うかパートナーに聞くと「僕は、そうは思わない」と返ってきた。
僕には、なぜパートナーや(おそらく)他の人たちが、「そう思わない」のかわからないけど、僕もその答えを静かに聞いた。
そして考えは今も変わっていない。
変わっていないけど、もし僕がパートナーや他の人のように思えたとしたら、生きる希望が湧いてくる。もしかしたら、僕が何かを見落としていて、僕が世界を見間違えているのかもしれない。そういう可能性があるかもしれないと、前向きに希望をもって、前に書いた記事を訂正し、新しい記事に変えた。
もしくは、僕が見ている世界はやっぱり真実かもしれないけど、それでも、自分を騙してでも偽りの世界で「優しさ」を信じていたいような気もする。
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