これは、過去のトラウマの記録です。
この記事には、見ていてしんどくなるような内容が含まれています。調子の悪い方や、暗い話を聞きたくない方は、ここで引き返してください。
同性愛者であることについてお話しします。
この間、パートナーと洋画を見ていました。僕は何か映画を観るときや、お芝居や音楽のライブを鑑賞する時に、よくその内容とは関係のないことに思いを馳せます。
そして、思ったのですが。
名前を変えて、顔も整形手術して、偽造パスポートを作って、正体を隠しながら、いつ警察にバレるかという恐怖に怯えながら海外で一日一日をなんとか凌いで暮らす、という生活はカミングアウトをしていない同性愛者の心情によく似ているのではないかと思いました。
もし、僕がその様な心が休まることのない状況に置かれたら、バレたら捕まるという恐怖があるけれども、誰か一人でも良いから自分の本当のことを伝えて楽になりたい、と思うと思います。でも言えません。
例えば、心細くなるような異国の地で、そんな生活をしていて、知り合いも友達も家族も居ない(同性愛者で言うなら、知り合いにも友達にも家族にもカミングアウト出来ない)中で、行きつけの散髪屋があるとします。(そんな金銭的余裕があるのかという設定の甘さは、一旦無視します)
毎月、その散髪屋に通います。
最初は、表面的な世間話です。ですが、通うごとに少しずつプライベートな話もするようになります。毎日、緊張で張り詰めていた心が、少しほぐされるような感覚を味わいます。ですが「いや、ダメだ。危ない。油断をするとバレて警察に捕まる」と自分を律します。ですが「本当は心の内を(本当のことを)話して、楽になりたい」という本能を無視出来なくなります。ですが、押さえつけるしかありません。
話が変わりますが、僕は今現在、カミングアウトを僕と関わっているほとんどの人にしています。なので、心はある程度自由です。
最初にカミングアウトをしたのは、母親でした。ずっとゲイであることを隠して生きていましたが「これ以上はもう無理だ」誰かに話して楽になりたい、と思いカミングアウトをしました。(19歳のときです)
その時は、もし拒否されたら自殺する覚悟でした。
ですが、母は「そうなん。私、IKKOさん好きよ」と答えてくれました。
あとで母から聞いた話では「内心、ビックリした。でも、病気で苦しんでいた僕が元気でいてくれたら、それでいい」ということでした。
その最初のカミングアウトで受け入れてもらえたことが、とてつもなく大きかったです。
その後、今まで抑えていた分の反動で、当時関わっていた人全てに、やけくそになってカミングアウトしまくりました。もう、どうなってもよかったのです。
「カミングアウトをしないと、僕は死んでしまう。生きていられない」という強烈な情動と、今まで抑えてきた気持ちの反動に突き動かされていました。
話は変わりますが、18歳のときに初めて恋をしました。
はじめての感覚と感情と快感を覚えました。脳内麻薬がバンバン出ていて、幸せだけど危ういような感覚でした。そしてその後、僕は恋愛中毒になり、恋愛依存的な感じになっていきました。
中学生の頃、僕の周りには男女で付き合っている人たちがいるという噂が流れて周りは「ヒューヒュー」というような冷やかし?が横行していました。僕はその時に「この人たちは何をやっているのだろう?」と思いました。
どうやら彼らには「好き」という感情があるようでした。
僕は当時、その、人を「好き」になるという感情がわかりませんでした。
なぜなら、僕は男だから女性を好きになるんだと思っていました。でも、女性と接しても何も思いませんでした。なので、僕は恋愛とか人を好きになるという感情が無いんだなぁと思っていました。
高校生の時もそうでした。
クラスの女性と接していても、特別な感情は浮かびません。
ただ、中学の時も高校の時も、ある特定の男性と接している時に心が満たされたような感覚がうっすら浮かび上がるような気がしていましたが、それが恋愛感情とか好きということなんだとは気付きませんでした。
同性愛という概念をあまり知らなかったからです。なので、自分が同性愛者であることにも気付きませんでした。
同性愛というと、ただ漠然と世間に漂う「気持ち悪くて、汚らわしい」というイメージしか知りませんでした。
ですが、高校を卒業して大学に進学する時に、母がお祝いでパソコンを買ってくれました。その時に初めてインターネットというものに触れました。
インターネットで色んなワードを検索してみました。すると膨大な情報がずらーっと出てきて感動しました。そして、僕は何故か同性愛やゲイという言葉を頻繁に検索していました。「僕は同性愛者じゃないけど、なんとなく調べてみたくなる」という感覚だったと思います。
インターネット上には、「同性愛者」や「ゲイ」と思われる人のブログや体験などが書かれていました。出会い系の掲示板も見つけました。気がついたらそれらの情報をずっと見ていました。
いつ自分が同性愛者だと確信したのか、そのタイミングなどはあんまり覚えていないのですが、インターネットで情報を見ているうちに、ぼんやりと無意識の中で「僕は同性愛者」と気付くようになっていったと思います。
インターネットでゲイの人と初めてメッセージのやり取りをした時は、なんだか訳がわからないけど、嬉しくて興奮して、すごくホッとした様な気がしました。生まれて初めて、本当の自分をさらけだせる居場所ができたような気分でした。
そういうことを続けているうちに、僕は出会い系の掲示板に書き込みをしました。あまり覚えていませんが「友達や恋人募集しています」というような内容です。
そして、ある一人の人と毎日テレビ電話で連絡を取り合うようになりました。その時間は至福の時間でした。何を話したかなどは覚えていませんが、多分今まで人に話せなかったようなことを全部話していたと思います。そして、その人も精神疾患持ちで、そういう「つらさ」の話もよくしていたと思います。
その時の僕の生きていく支えは、彼だけになりました。
ミサンガを編んで、郵便で送ってくれた時もありました。それからは、そのミサンガを肌身離さずいつも付けていました。心を支えてくれるお守りでした。
(周りから見たら、完全な依存ですが、当時はそもそも依存できるものが勉強以外になく、勉強も完全な支えにはなってはいませんでした。高校の終わり頃、今までの支えだった勉強も出来なくなって成績もどんどん落ちてゆきました。燃え尽き症候群でした。大学に入った途端、完全に燃え尽きて、勉強ができなくなりました)
ある日、その彼と連絡がとれなくなりました。僕は不安でたまりませんでした。彼が自殺したのではないかと思ったからです(彼は時々、自殺を、ほのめかしていました)。
なんとか堪えて、2日、3日…と連絡を待っていましたが、連絡がとれません。僕は頭がおかしくなりました。彼は、自殺したんだという可能性が濃厚になってきたからです。
耐えられませんでした。
頭が、感情なのか、感覚なのか、なんなのか分からないものでいっぱいに埋め尽くされ、更にどんどん、その負の物が頭を埋め尽くしていきます。僕の頭はパンク寸前で、爆発しそうで、どうしようもなくなりました。何も考えられず、頭が風船のように感情でどんどん膨らみ、破裂寸前で、パニックでどうしようもなかったです。
例えて言うなら、誰かに頭を水中に押さえつけられて、自分の耐えられる限界を超えた時のような状況です。
僕は、とっさに洗面所にあったカミソリで腕を切りました。血がたくさん流れでました。ふっと気が楽になり、落ち着きました。切る時の痛みは一切なく、気持ち良さだけがありました。
切った後は、別の部屋まで歩きました。和室の隅に座りました。畳が血だらけになっているのが分かりました。
しばらくした後、母がやってきました。母は、慌てて僕を病院(外科)に連れていきました。そして医師に腕を縫ってもらいました。「こんなバカなマネはするな」とその医師は言いました。
僕は慣れていました。他人には絶対に僕のことは分からない。「バカなマネ」と思える神経がうらやましい、おめでたい、そして「バカはお前だ」と思いました。
結局、その彼は自殺しておらず、携帯が壊れていて連絡がとれないだけだったようです。彼とは一年半ほど毎日連絡をとっていました。ですが、急にその人に対する僕の気持ちが冷めて、その後、連絡をとるのをやめました。
その後、また心の支えが欲しくて別の人を探しました。そして、見つけました。(今、振り返ったら自分勝手で都合のいい行動ですが、当時はそうせざるを得ませんでした)
その人は東京でお笑い芸人をやりながら、ゲイバーで働いているという、僕とは正反対の性質を持っている人でした。自分というものをハッキリ持っており、そういう自分にはないところに惹かれ、憧れました。(自信の無さ、自分の弱い部分を受け入れられていない表れです)
そして、僕は彼に会いに東京に行きました。
2週間ほど彼の家に滞在しました。
僕は彼に猛烈にハマりました。
結局、彼は仕事などで2日しか僕とは一緒にいられませんでしたが、その時の家の間取りや、街並み、駅や、駅から家まで歩く途中にある景色、愛媛県では見ないライフという名前のスーパー、家の近くにある図書館やラーメン屋さんやBOOKOFF、そしてその時の心地の良い春風。今でも鮮明に覚えています。(彼にハマったこと、その前の彼にもハマりましたが、それらは全て僕の中にある黒いものや僕の問題が反転して起きた現象だと思います)
その彼には振られました。
そのショックはとてつもなく大きく、その後4年間ずっと引きずることになりました。
その人になりたくて、その人が吸っていたタバコを吸い始めました(当時僕はタバコには興味がありませんでした。ちなみに銘柄はマルボロメンソールライトです)。
その人になりたくて、僕もゲイバーで働きました(元々コミュニケーションが苦手な僕は2ヶ月で辞めました)。
その人のようにお笑い芸人になれる自信はなかったので、似たような世界として劇団に入りました。その人が住んでいたレオパレス21を見る度に涙が出ました。その人の住んでいた街にあるお店を見るたびに涙が出ました。Googleマップで、その人の家の周りを見て、当時を思い出して泣いていました。とにかく、4年間ずっと引きずりました。
その間にも、寂しさを埋めるために、掲示板で恋人を探したり友達を探したりしていて、恋人が見つかっては振られたり、(僕が情緒不安定だったので)振ったりを繰り返していました。
話は変わりますが、自分が同性愛者だと気付いた後、ショックでたまりませんでした。
僕があの、「気持ち悪くて汚らわしい同性愛」であることに耐えられませんでした。
自分で自分が気持ち悪くて仕方なかったです。ですが、本能で好みの男性を目で追ってしまいます。そんな自分に気づいた瞬間、「自分はなんて気持ち悪いんだ」という感情の刃をいつも自分に向けていました。そういった「男性が好きである自分」と「そんな自分を気持ち悪く思う」という相反する気持ちが、自分の中で両立していたので、心はいつも泥水のように乱れていました。
自分を受け入れられなくて、最初の頃は「自分は性同一性障害だ」と無意識に思い込もうとして、そうなろうとしていました。性同一性障害は見た目では同性愛に見えるけど、心では異性愛なので、正常だからです(女性の心を持って生まれた男性が、男性を好きになる)。
なので、本当はしたくもない化粧をしたり、髪を伸ばして女性みたいになろうとしたり、仕草も気をつけたり、身体が骨張っていたら男性的だから、丸みを帯びるためにたくさん食べたり、していました。
その時は意識してしていたわけではなく、無意識にやっていました。(本当は心の奥底で気付いていたかもしれませんが、それも封じ込めて、とにかく無意識に自分を騙していました。意識してやったら、それはもう自分が性同一性障害ではないと認めたことになります)
そして、初めての心療内科で、性同一性障害の診断をしてもらおうと、医師にはたらきかけました。ですが、医師は「〇〇(僕の名前)さんは、性同一性障害には見えません」と言われました。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」と診察室を出た後、暴れて叫んで、カルテを階段に投げつけました。駐輪場の原付を蹴飛ばして、柱に頭を打ちつけました。
今は、自分が同性愛者だということを、ある程度(70%くらい)受け入れられています。
どのタイミングでそうなれたのかは覚えていませんが、NPOの当事者団体に入って、その中でたくさんの当事者に出会ったり、僕がゲイであるということを知っている異性愛者の友達が普通に接して、遊んでくれたりしたことなどが、大きかったのではないかなと思います。
長い間、恋愛依存性でしたが、これではダメだという気持ちも次第に芽生えていきました。
彼氏ができない一人の間にたくさん考えました。
本を読んで、人との付き合い方を頭でも学ぼうとしてきました。その結果、今は素敵なパートナーに恵まれて暮らしています。
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