【競馬と詩】過程よりも結果を重視して、大切なものを失った話

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いびつな「最強馬」

僕は、小学生のころから、二人の兄の影響で「競馬のゲーム」にハマっていました。

小学校を卒業しても、中学校になっても、高校一年生まで、その競馬のゲームが好きでした。

シュミレーションゲームというやつで、馬を調教して鍛え、レースに出すというものです。「ダービースタリオン99」という名前で、略して「ダビスタ」と呼んでいました。

ずっとずっとダビスタをやっていて、そのゲームをしている間はとても幸せな気持ちでした。

(ちなみに、「かまいたちの夜」という小説ゲームにもハマっていて、その二つをずっとやっていました)

そして、育てた馬をレースに出します。

ちなみにダビスタは、レースが終わって順位が出たあとに、ゲーム機の電源を切って、またつけると前にセーブした地点まで戻ります。つまりレースの前に戻ります。そしてまたレースに出ると、なんと順位が変わるんです。

だから、レースで5位に終わったら、ゲームの電源を切り、また同じレースに出場し、1位になるまで何度も何度もそれを繰り返していました。

そして「24戦24勝」という最強馬をつくりあげました。

「やった!」「24戦24勝、なんて美しい響きだろう」とうっとりした直後に、ものすごい虚しさに襲われました。

「24戦24勝という最強馬」だけど、ゲーム機を消すことなく、普通にレースに出したら、普通に負けるような馬です。

輝かしい結果を生むために、過程を操作しまくってできた「最強馬」を眺めていると、自分の心がポロポロと崩れてゆくのを感じました。

そして、いままで熱中していた「ダビスタ」に対して、「なんだ、たかがゲームじゃないか。ゲーム機を叩き壊したら、何も残らないただのゲームじゃないか」と一気に気持ちが冷めて、その日以降ダビスタをやらなくなりました。

「昔のように、熱中したい」と無理やりプレイしようとしましたが、熱は二度と戻ってきませんでした。

「すごい」と思われたくて…

ダビスタはもう僕の元へは戻ってきませんでしたが、大人になってから詩を書くのが好きになりました。

「真っ白なコピー用紙に、手書きで詩を書き、イラストを添える」ということを自己満足でやっていました。本当に満足できていました。

自分の気持ちを詩という作品に昇華させ、イラストの線に自分の思いをのせると、自分だけの素敵な「作品」ができあがる。作品づくりは僕を本当に豊かな気分にさせ、僕は作品づくりそれ自体を本当に楽しんでいました。自分の人生に彩りが生まれたような気分でした。

そうやってできた作品を友達や知り合いに見せていると、その中の一人が「職場にスタジオがあるから、無料で貸してあげる。個展を開くべきだよ!」といってくれました。

僕は嬉しくて興奮し、その日以降、その個展を意識しながら作品をつくるようになりました。

いままでは自分が満足する作品を、マイペースでつくっていたのですが、その日からは、個展に来てくれた人にいかに「すごい!」と思われるか、それだけを意識して作品をつくるようになりました。

そして個展が無事に終わって、たくさんの嬉しい反応がもらえたのですが、それ以降詩が書けなくなりました。

人から「すごい」と評価されるような詩を書くということばかりを意識して作品づくりをしていたので、昔のように「自分の好きなよう」に詩を書くことができなくなっていました。

そしてまた、急激に熱が冷めて、詩が書けなくなりました。

無理やり書こうとしても、どうしても気持ちが沸き起こらずに、詩と別れました。

こんなことがあり、「結果」を重視しすぎると、自分の気持ちが冷めてしまうということを学びました。

最後に宣伝です

ちなみに宣伝ですが、その個展までに書いた詩をKindle本として出版しています。

それぞれのページに詩のサンプルを6つほど載せているので、よかったら覗いてみてください。

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著者

栃木県在住の35歳。

34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越し、ヘルパーの仕事をやめて無職になる。躁うつ病(完解済み)・同性愛・発達障害グレーゾーン当事者。趣味は登山で、ニュージーランド1300kmの歩き旅を終えたばかり。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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