大学で「軍団」に入った孤独な僕を救った、たった一人の存在|昔の話 #3

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書道部と合唱部に入る前の話を書こうと思う。

もくじ

軍団から誘われる

大学に入りたてのころ、僕には友達がいなかった。

だからとにかく人の優しさに飢えていたし、友達が欲しくてたまらなかった。

周りを見渡すと、当たり前のように誰かが誰かと一緒にいる。そんな僕からしたら奇跡みたいな光景が、当たり前のように広がっているこの世界から、僕は見放されていると感じていた。だけど、そんな世界を信じたかった。

ある日、授業である人と知り合った。

第一印象は、オシャレで、僕とは住む世界が違うような人だった。

髪の毛を染めて、パーマをあてて、ワックスでセットしている。ネックレスをつけていて、高そうな服を着ている彼は話し方や所作やノリが軽く、イケイケな雰囲気を身にまとっていた。顔に浮かべる笑みに、嫌なニュアンスがあった。

でも、そんなことはどうでもいい。

話しかけてくれるだけで、僕は嬉しかった。

授業で定期的に会う彼は、ある日僕に「松浦軍団に入らないか?」という話を持ちかけた。

彼の名前は松浦で、彼がボスになって軍団をつくっているという話だった。

僕は、少し躊躇したけど、入ることにした。この世界で僕を気にかけてくれる人は、ほとんど存在しない。そのときの僕にとって、彼は天然水のように貴重な存在だった。

昔の話なので、あまり詳しくは覚えていないんだけど、松浦軍団には10人メンバーがいて、僕が11人目ということだった。

僕は新入りだったので、次のメンバーが入るまでは、下っ端として振舞わなければならないということだった。

具体的にいうと、上の人が「菓子パンを買ってこい」というと、それに従って菓子パンを買いに行くようなシステムらしかった。

僕はそれに対して若干の違和感を覚えたものの、「そんなものかな」と思い命令に従っていた。

そんなものかなと思っていたのは、いま振り返ってわかったことだけど、僕は父親にネグレクトされていたし、母親は躁うつ病で、いつも僕が看病をして僕が親代わりをしていたからだ。

というのも、ちゃんと機能している家庭だったら、親から勉強以外のいろんなことを教わることができたんだと思う。それを教わっていれば、僕には友達がいたのかもしれないし、松浦軍団がいかに怪しい集団なのかも、ちゃんと判断できていたかもしれない。

だけど当時の僕は、松浦軍団の危うさがちゃんと理解できずに、そのまま軍団に従う道を選んだ。

たった一人の存在

だけどある日、僕は松浦軍団を辞めた。

実はそのとき、僕には大事な人が一人いたからだ。

その人は僕の初恋の相手だった。ネットで知り合ったその人は、神奈川県に住んでいたので、毎日スカイプのビデオチャットで話をしていた。

その人はトランスジェンダーで、僕はゲイだった。

真っ暗な深い落とし穴の中から、小さな青空をずっと見上げていた孤独な僕の横に、そっと灯された豆電球のような存在だった。

ある日、その人がミサンガを編んで、郵送してくれたことがあった。

僕はそれをずっと手首につけていた。

毎日つけていたので、その白と青の糸で作られたミサンガは汚れて、黄ばんでいた。それが恥ずかしいという感覚もなく、いつもつけていた。

ある日、授業中に松浦君と隣同士の席になった。

僕が手首に着けているミサンガのことを聞かれたので、「大事な人からのプレゼント」だと答えた。ダサい恰好をした僕がつける黄ばんだミサンガを見る松浦君の目には、軽蔑のような笑みが浮かんでいた。

そして僕は言った。

「松浦軍団を、やめたいです」

そう言えたのは、その初恋の人という、世界にたった一人の僕の味方がいたからだ。その支えがあったから、自分の中にあった、松浦軍団に対する小さな違和感を信じることができたし、辞めたいと言うことができた。

もし僕に誰もいなかったら、僕は犬のように松浦軍団に従ったままで、今はまったく違った人生を送っていたと思う。

たった一人でも自分の味方がいれば、自分を信じる力が湧くということを学んた出来事だった。

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著者

栃木県在住の35歳。

双極性障害二型(完解済み)・同性愛者。

34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越し、12年間続けた介助の仕事をやめて無職になる。精神安定剤代わりに始めた登山を、毎週続けているうちに、ニュージーランド1300kmのロングトレイルを歩くことができるようになった。フィリピン人の同性パートナーと一緒に生活をしながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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