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【趣味に飽きる】登山熱が冷めたとき、その困惑の中でどう対処したか

もくじ

はじめに

登山だけではなく、なにかに没頭したことがある人にとって興味のあるタイトルではないでしょうか。

まず、僕たちは人間ですから、一部の特殊能力を備えている人を除いて、長く続けていると飽きるということは「自然」なことだと思います。

自分の好きなものに対して飽きるという感情を持つことに、罪悪感のようなものを感じていたり、困惑している人は、まずそれは自然な感情だと受けとめることが最初のステップだと、僕自身の経験から、そう思います。

僕はずっと、自分のやりたいことや、好きなことが分からずにいました。「なにか見つけたい」といろんなことを試したけど、好きになれず虚しくなっての繰り返しのなかで、やっと「登山」を見つけました。

大好きで大好きで、毎週山に登っていました。

山の茶色い地面を見るだけで興奮したり、山道具を見ているだけでトキメいていました。家で観ている映画の中でハイキングシーンが出てくると、まるで僕もそこにいるかのように、心がとろけていきました。

そんな僕ですが、登山熱が冷めるときがやってきます。

これまで二年ほど登山をやってきた中で、二回、登山熱が冷めることがありました。

一回目のときは、ものすごくショックでした。あんなに好きだった登山にトキメかない。山の中を歩きながら、「何をしているのかな」「家に帰りたいな」と、以前の自分なら絶対に思わないようなことを思っている自分に、動揺しました。

それ以来僕は、毎日のように登山熱を戻すにはどうしたらいいか答えを探すため、考えたり、本を読んだりしていました。

話を今に戻します。

いまの僕はどうかというと、登山が大好きです。明日登る山の地面や空気、その時の広大な山の中にポツンと一人でいる自分を想像するだけで、心が発熱します。

それでは、登山熱を取り戻すために何をしてきたのか、紹介していきます。

登山熱を取り戻すためにやってきた4つのこと

1. 受け入れる(登山熱が冷めたことに罪悪感や焦りを感じない)

罪悪感や焦りを「感じない」と書きましたが、感じますよね。

「登山が自分のやりたいことだったんだ」と分かり、人生を登山に全振りしたり、「やっと見つけた自分の好きなことを手放したくない」「大切に守っていきたい」と思っている人からすると、それは一大事だと思います。

感じてしまうのは仕方のないことなので、罪悪感や焦りを感じても、それは「仕方がない」「自然なことだ」と理解し直すことが大事です。同じことを何度も何度も飽きずに続けられる「超人」のような人もたまにいますが、多くの人にとって「飽きる」というのは自然なことのはずです。

そして、「飽きる」ことを、「自分は山がそれほど好きじゃなかったんだ」と安易に結び付けないことです

同じことを続けていたら、「そりゃ、飽きます」。「飽きる」と「好き」は別問題で、切り離して考えるべきだと思います。

まずは、登山に飽きている自分を認めることで、「では、どうしようか」と考える下地ができあがります。

2. あがく(変わらず山に登る)

飽きる自分を認めると書きましたが、そんな簡単にできることではありません。

「それでも登り続けていれば、なにか見えてくるのではないか」という思いで変わらず登り続けていました。おかしなことに思えるかもしれませんが、山に登りながら、山に登る理由を探し続けていました。

「なにか違った角度で山の楽しさを再発見できるのではないか」「ある地点に到達したら、ガラッと世界が変わって、新しい世界に辿り着けるのではないか」という思いでした。

ただ、それだけではどうしても行きづまるので、本も読んでいました。

AmazonのKindle Unlimitedという本の読み放題プランに加入していたので、ヒントになりそうな本を探して読みあさりました。

その中でいくつかヒントを見つけました。

ただ、それらは決定打ではありませんでした。山を登るための、その場しのぎの「つなぎ」のようなヒントを見つけて、なんとか登山を続けていました。

3. やめる(他のことに集中して、登山から離れる)

そんな「一ヶ月だけ持続するような山に登るヒント」をつなぎ合わせて登山を続けていましたが、苦しくなったので、思い切ってやめました。やめる、というより、いったん離れると言った方が正しいかもしれません。

そして僕は、登山のほかに「ジョギング」や「水泳」「自転車」などの趣味もうっすらとやっていたので、そちらに力を注ぎました。

するとジョギングが楽しくなってきて、毎日ジョギングのことを考えるようになりました。昔の僕にとっての、登山の立ち位置でした。

そんな風にジョギングを楽しんでいると、ふと「ジョギングもいいけど、登山がしたいな」と思うようになりました。そして、山に行きました。

4. 手放す(あのときの気持ちに固執しない)

山に行くと、楽しかったです。

あぁ、この登山が楽しいという純粋な気持ち。「懐かしいなぁ、嬉しいなぁ…」と思いました。そして、どうしてそんな風になれたのか、考えていました。

登山に限らず、人生の他のことに対してもそうだと思いますが、一時の想いに執着すると苦しくなります。

なぜなら、人は変わってゆくからです。

人だけではなく、環境も変わってゆきます。全てのものは変わり続けてゆきます。「あのとき」というのは、もう訪れないのです。それなのに、その訪れない「あのときの気持ち」をいつまでも憧れて、追い求めていると、苦しくなります。いまの自分はもう、あの時の自分ではないからです。

これを寂しいことだと捉えるか、そうではないと捉えるか。

今は今の風が吹いています。

その今の風を感じてみようと、「あのとき」への執着を手放し、今とチューニングしようとするような、軽やかな感じ、軽やかな気持ちになる。それが、登山熱の復活に大切なことだったのではないかと、いま振り返えると、そう思います。

(そして、ニ番目に書いたような無駄に思えるあがきや悩みが、この軽やかな気持ちに至るための通過点として役割を果たしていたのではないかとも、個人的に思います。)

「あのとき」は失ったかもしれませんが、今は今で、山の魅力を探すことはできるはずです。

おわりに

文章にしてみると、シンプルでスッキリしているので簡単に見えますね。

ですが、生きているからには、いろんな気持ちや出来事に支配されてしまうことが、これからも当然あると思います。そして、一時の気持ちに執着してしまうことも、その他諸々も、あると思います。

ということは、これからも、また登山熱が冷めるときが訪れるということです

ただ、「そんなもんだ」と受け入れ、その時その時の自分でまた山に登っていれば、熱は自然と戻ってくれるものだと思います。

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著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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