働くことに対する恐怖と、僕の職業遍歴

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僕が中学生のころ、母親の体調が悪化し始めた。

もともと精神の病気をもっていた母だったけど、僕を産んでからは病状が落ち着いたようだった。でも、僕が中学生になったころから、父の収入が減り始め、家の経済状態が悪くなり、母の精神病も悪化した。

そして、体調の悪い母は、家計をやりくりするために、働きに出た。

でも、精神の病気が悪化しているので、もちろんまともに働けるわけがない。縫製工場や介護の仕事、ラブホテルの清掃や調理場での仕事など、いろんな仕事をしていたけど、どれも体調が悪かったせいで、続けられなかった。

入社しては辞め、を何度も繰り返していた。

面接のための履歴書は、いつも僕が書いていた。

僕の字がきれいだということ、母は体調が悪くて履歴書を書く元気がないということが、その理由だった。

母は体調が悪く、いつもイライラしていたので、僕が「めんどくさいから書きたくない」というと、怒られることもあった。

母は、働ける状態じゃないのに、身体にムチを打って働きに出ては、精神が狂い、辞め、でも家計を助けるために、またすぐに面接にいき、また辞め、そしてまた仕事を探すという、生き地獄のようなことを繰り返していた。

そんな母の姿を近くでずっと見ていたので、子供の頃から「働く」ということに対して、恐怖心と憂鬱な気持ちが芽生えた。

そして、僕も19歳のころ精神疾患を発症した。

まだ発症したばかりのころ、僕は心のなかに「激しい気持ち」があったので、僕も働きたいと思い、アルバイトに6つ挑戦した。

どれも週3日くらいで、勤務時間は短かったけど、どれも続かなかった。

ちなみにやったアルバイトは、皿洗いやスーパーの商品補充、コンビニ店員やゲーム屋の店員、ポスティングにゲイバーだ。(スーパーの商品補充だけは、1年間続けられた)

皿洗いは3ヶ月、続けることができた。

相当忙しい現場で、ついていくことができなくなって辞めた。辞めるときにオーナーは「このぐらいで辞めるお前は、この先、一生成功できん!」と激怒しながら、呪いをかけてきた。僕は、泣きながら厨房を去った。

そのあとは地元のスーパーで働いた。

最初はレジ係ということだったけど、お客さんとやりとりをするのが苦痛でたまらなかった。我慢して続けていたけど、3ヶ月が限界だった。だから、責任者にこれ以上は続けられないということを伝えると、商品補充係に移ることになった。

この仕事が、いま思えば天職だったと思う。

お客さんとのやり取りは必要最低限で、ただひたすら黙々と商品を棚に並べていく。そして暇なときは、商品のラベルが全て正面に向くように、向きを変えたりする。さらに、廃棄になった商品を持って帰れる。

ここで気をよくした僕は、もっとやりがいのある仕事がしたいと思い、退職を申し出た。

そして、コンビニで働くことにした。

ただ、このコンビニが想像以上の激務だった。とにかくマルチタスクでいつもパニック状態だった。

店舗のガラス拭きや店内の床の掃除(床の掃除に特殊な機械を使う。そして使い方がよくわからない)、レジをするのはもちろんだけど、レジの操作方法も複雑で、タバコの銘柄も覚えないといけなかった。肉まんや唐揚げなども時間を見ながら作らないといけないし、郵便や公共料金の支払いの仕方も覚えないといけなかった。切手も用意しないといけないし、隙を見て商品補充をしないといけない。

とにかく忙しくて、頭の中がいつもパニック状態だったし、従業員のなかで派閥ができていて、僕はどちらにも属したくなかったので苦しかった。

結局、2ヶ月で辞めた。

この辺りから、精神疾患も次第に悪化し始めた。

その次は、ゲーム屋さんで働き始めたけど、体調が悪くて3日で辞めてしまった。

そして、そのあとはポスティングの仕事をすることになったけど、体調が悪いせいで、人間関係もうまくいかなかった。いろんなことがうまくいかなかった。

ある日、一緒に働いていていた同僚が「お前の上司が、〇〇はダメだ」と言っていたぞと、僕に笑みを浮かべながら伝えてきた。どうやら僕は上司に見放されていたようだった。

そして、この仕事も3ヶ月で辞めた。

そのあとはゲイバーで働き始めたけど、コミュニケーションが苦手な僕は2ヶ月で辞めた。

いろんな仕事をしたけど、うまくいかないことばかりだったので、僕の中の「激しい気持ち」は消え、憂鬱な気持ちと、無力感が残った。

そして、その隙を狙ったかのように、病気は更に悪化し始め、僕は引きこもった。

振り返ってみれば、僕も、母のように、仕事がどれも続けられずに、「働くことに対する恐怖心」だけが強く残った。

その後何年か経って、友人に「介助」の仕事を紹介してもらった。

そこは、「障害者枠」として僕を働かせてくれて、僕の体調に合わせて、勤務量を減らしたり増やしたりして、調整してくれるということだった。

最初は、週一日の4時間勤務から始まった。

半年が経ったころ、週二日に増やしてもらうことにした。でも、また体調が悪くなり、週一日に戻してもらった。そうやって、週一日→週二日→週三日→週二日→週三日というふうに、徐々に勤務時間を伸ばしていくことができた。

最終的には、週三日の週28時間勤務に落ち着いた。

そして、その仕事を辞めて、いまに至る。

辞めたのは、パートナーが県外で働かないといけなくなったので一緒に行きたかったことと、職場での人間関係に耐えられなくなったことが、その理由だ。

そして無職生活を一年以上続けて、そろそろまた働き出そうとしているところだ。

ただ、いままで人間関係でうまくいかなかったことが多いので、完全在宅でできる仕事を探している。その奮闘記も記事としてまとめてある。

でも、うまくいかないし、完全在宅となると給料が安いものばかりだ。

だから、また外に働きに出ることを考えている。

外で働くことは、ものすごく怖いけど、またその進捗状況もブログにあげてみようと思うので、よかったら見てほしい。

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著者

栃木県在住の35歳。

34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越し、ヘルパーの仕事をやめて無職になる。躁うつ病(完解済み)・同性愛・発達障害グレーゾーン当事者。趣味は登山で、ニュージーランド1300kmの歩き旅を終えたばかり。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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