詩集を出版しました!こちらをクリック

登山で心を鍛えることはできるのか、登山を100回して検証しました

もくじ

はじめに

はじめて登山をした日に思ったことは「こんな大変で危険も伴う登山を何度もして達人のようになったら、動じない心を手に入れて、幸せに暮らせるじゃないか」ということでした。

最初に結論をいうと、登山を100回続けても心は強くなりませんでした

元のビクビクした性格もネガティブ思考も、まったく変わりませんでした。ただ、「100回やって、なにも変わらなかったのか」というと、そういうわけでもありませんでした。

僕の心の弱さ

僕は「繊細で、恐怖心が強く、内向的で、大きな声が出せない」人間です。

そもそも、なぜ登山を100回しようと思ったかというと、当時住んでいたアパートの住民に暴言を吐かれたことがきっかけでした。

その日以降、仕事からアパートに戻るとき「その人に出くわさないか」いつもビクビクしていました。自分の部屋にいても、何かいちゃもんをつけて僕の部屋まで来るんじゃないかと、胸がドキドキして、たまりませんでした。

それがとてもストレスだったため「動じない心」や「達観した気持ち」が欲しくて、毎週山に登って心を鍛えることにしました。少しでも家にいる時間を減らして、山にいる時間を生活の軸にしようとしていました。

登山100回を目指す中で気付いたこと

登山を何回続けても、アパートにいるときの、自分の「繊細でビクビクしやすい心」は何も変わっていないことに気付いていました。

ただ、山の中にいるときは違いました。

山の中にいるときは、他の多くの登山者の中にいても堂々とした気持ちでいられたし、余裕がありました。

ここでわかったことは、登山を100回しても「街では強くならないけど」、「山の中では強くなる」ということでした。

そして山を100回も登っていると、それなりの人数と山で出会うことになります。挨拶をしたり、立ち話をしたりすることも何度もありました。なので、街で知らない人と話すときの怖さが、気がつけば、減っていました。

つまり、登山を100回することで山の中で強くなり、街で知らない人と話すことに強くなったのです。

ちなみに、虫や蛇、イノシシやシカなどの野生生物と遭遇してもあまり動じなくなりました。これも、強くなったといえるのかもしれません。

そもそも「心が強い」ってどういうこと?

ということは、実際に今やっていことを続けると、そのことに対してピンポイントで心が強くなるようです。

(なんだか、言葉にしたら、当たり前のことをいっているような気がしますが…。)

それって「強い」ともいえるし、単に慣れることで、心の感度が「鈍く」なっているともいえるんじゃないでしょうか。

実際に僕の場合では、登山を始めたばかりのころは「恐怖心がマックス」だったのに対して、「新鮮さや感動もマックス」でした。

登山100回目のときは、恐怖心はなくなって心は強くなったけど、新鮮さや感動も穏やかなものになっていました。

どんなことでも、あることを続けることで、そのことに対する心の強さはピンポイントで強くなる(あるいは鈍くなる)。そのことだけ強くなって、他のパラメータはそのまま。

僕はよく「心を強くしたい」と思っていたけど、無数にあるいろんな事柄のなかの、どの事柄についての「心」を強くしたいのかと考えるのが、正しい考え方なのではないかと思いました。

漠然と「心を強くしたい」では、その範囲が広すぎて、まったくまとを得ていないということになります。

※ IDを指定してください。

僕の場合でいうと

当時の「アパートの住民が怖くてビクビクしている」ということに対して心を強くしたいのなら、そういう人、もしくはいろんな人とたくさん接することで、強くなるということになります。

ですが僕は、自分から人と接することが苦手なので、「まぁ、そのうちなんとかなるか」とこの問題をほったらかしています。

「心が強い人」という表現は雑すぎることを改めて説明します

「漠然と心を強くしたいでは、その範囲が広すぎて、まったくまとを得ていない」といいました。

例えば、「めちゃくちゃ心の強い人」というものを想像してみます。なんとなく、性格が荒くて声の大きい人をイメージしてみます。

その人は、他の人に対してビビることもなく、自信たっぷりに堂々と歩きます。一見、弱さがないような人です。あなたの周りにもそんな人はいますよね。

その人を、夜の山に連れていくとします。真っ暗な山の中で、時々野生生物の鳴き声が聞こえます。そこで、その強そうな人が「ものすごく怖がって、山に入ることを拒む」ということは、実際にありえそうなことじゃないですか?

対照的に、僕は堂々としています。そこまで怖くありません。

ここでいいたいことは、「心が強い」というと「すべての事柄に対して強い心をもっている」と解釈しがちですが、実際にそんな人間はいません。無数の事柄のなかの「ここ」と「ここ」と「ここ」に対して強い心をもっているというのか正しい表現だと思います。

僕たちが「強い心をもちたい」と思うとき、その「強い心」に「全ての事柄に対して」という意味を漠然ともたせていませんか。

「全ての事柄に対して強い心をもつ」はありえないんです。

つまり、漠然と「強い心」をもちたいと考えたとき、すでにエラーが発生していることになります

どの事柄に対して強い心をもちたいのかを考えて、それに対して経験や訓練をしていくことが大切なのではないかと思います。

おわりに

「強い」は「鈍い」ともいえます。

「弱い」は「感動」ともいえます。

すべてのことに対して、心が強い人はいません。みんな「なにかしらに対して」心が強いだけです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

気軽にコメントしてね!

コメントする

もくじ