僕は愛媛県に住む、33歳の男(同性愛者)です。
僕は30歳になるまで「自分は何かしたいのか」ずっと分かりませんでした。なにか見つけようと、子供の頃に好きだったことをやってみましたが、しっくりきませんでした。
そんなある日、職場の人からジムに誘われました。
そしてジムから帰った後、僕は中学生のころから男の人の筋肉で太くなった身体が好きで「自分もそうなりたい」と筋トレをしていたことを思い出しました。
ですが、それは続きませんでした。
なぜなら、動機が不純だと感じていたからです。性的な欲求のようなものが動機なので「そんなものは恥ずかしいことだ」と思っていました。
ですが、ジムで自分の気持ちを思い出した後、家で再び考えました。
僕の唯一の興味である、筋肉で太くなった逞しい身体。いままでは、そんなことを考えるだなんて恥ずかしいことだし、ちゃんと考えるに値しないことだと、頭の中から無意識に除外していました。
「だけど、本当にそうだろうか。」
本能からくる、「好きなもの」「興味のあるもの」を無理やり否定することの方が不自然ではないだろうか。
その、本能からくる「好き」という気持ちを活かせる何かに取り組めば、決して枯れることのない最強のモチベーションが手に入るのではないだろうか。
そう思い、自分の「好きなもの」に向き合おうと覚悟を決めました。
そして、筋力トレーニングを始めました。
ですが、長い間運動をしてこなかった僕の身体が悲鳴をあげました。なので、最初は基礎的な体力をつけるために、サイクリングを始めました。続けているうちに、サイクリングの楽しさを知り、筋トレはそっちのけでひたすらサイクリングをするようになりました。
ですが今度は、足の神経痛を発症します。
サイクリングを封じられてウズウズしていた僕は、山に登ってみることにしました。そして、山では足の痛みが出ないどころか、「なんだ、この清々しさは!」と、登山に感動を覚えました。
この日から僕は山の虜になりました。

登山は、身体を使うスポーツなので「筋肉をつけたい」という、元々の欲求も満たしてくれますが、それだけで登山が好きになったわけではありません。
「広い大自然の中に一人、ポツンといる感じが好きだな」
「知らない大自然を歩くのは、冒険みたいで、僕の子供心がくすぐられるな」
「転ばないように、一歩一歩足元に集中していると、心が無になって、スッキリするな」
と、他にも登山が好きな理由はたくさんあります。
だけど、「自然のなかに飽きたとしても」「山に慣れて、冒険心があまりくすぐられなくなっても」「一歩一歩集中して歩く気にならなくなっても」
「筋肉をつけたい」という本能レベルのモチベーションが、登山が趣味であることを支えて続けてくれます。
いままで僕は、なにをやっても続かなかったのですが、この登山だけは欠かさず継続できています。それは「フタをしたいと思うような自分の欲求」に素直に向き合ったからです。
やりたいことが見つからないという人は、僕のように「人に言えないような恥ずかしいこと」「社会から見たら意味のないようなこと」「些細でつまらないこと」にヒントが隠されているのかもしれません。
「ものごとの意味」や「価値」を重視する今の社会で、僕たちはそういうことにフタをして目を向けないようにする習慣が培かわれてしまっていると思うので、むしろ、そういうことにこそヒントが隠されているんじゃないかと思います。
今回、紹介したこと以外にも、たくさんのことにトライしてきました。少しでも興味をもったことにトライし続けることで「自分は何が我慢できないほど嫌いなのか」「何をしている時が時間を忘れるほど幸せなのか」、そして「自分はどんな人間なのか」がわかってきます。
やりたいことがわからなかった昔の自分にアドバイスをするとしたら、「自分の本当の欲求に素直に向き合うこと。少しでも興味をもったことにトライし続けることが大事なんじゃないか」と伝えると思います。



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