【LGBTQ】同性愛者である自分を受け入れる「自己受容」の難しさと、自己受容へいたる道のりを語ります

もくじ

自分を受け入れる?

当たり前に自分を受け入れている人にとって「自分を受け入れる」という言葉は奇妙に聞こえるかもしれません。

「だって、自分は自分じゃん」と思うのではないでしょうか?

ただ、僕の場合は違いました。

まだ自分が同性愛者だと気が付いていないころ、学校や社会で、「同性愛は気持ち悪い」という風潮にどっぷりと浸かりながら成長していった子供の僕は、自分を否定する考えを着実に育んでいました。

そしてある年齢になると「自分は同性愛者なんだ」と気付くようになります。

(ちなみに僕の場合は、18歳のころに自分が同性愛者だと確信しました。)

でも、小さいころから着実に育んできた「同性愛=気持ち悪い」という感覚は、18歳にもなると、強固な価値観として自分の根っこに定着しています。

とても強固な価値観です。

だから、自分が同性愛者だと気付いたあとに、「あっ、なるほど、僕は同性愛者だったのか」と冷静に受けとめられることはまずないと思います。

そしてこのときに、自分が分離します。

「僕は同性愛者なんかじゃない」と思う自分と、「でも僕は同性愛者だ。本当は知っている」という自分です。

「僕は同性愛者なんかじゃない」と思う自分は、理想の自分です。そうあってほしいと願う自分です。でも、どうあがいても僕は「同性愛者でしかない…」という現実があります。

その葛藤が、自分を受け入れる過程の中で何度も何度もあらわれて、自分を苦しめます。

ちなみにこれは「僕の場合は」という話ですが、「自分の存在が汚らわしい」「自分は醜い」「自分は存在すべきではない」とずっと思っていました。そしてそんな「間違った」自分を否定し、痛めつけることだけを考えていました。

ここから先は「自己受容の難しさ」と「そんな僕がどうやって自分を受け入れることができたのか」について、語ろうと思います。

自分を受け入れるためにあがいた日々

僕の場合は、まず「同性愛」というものに対して「気持ち悪い」という感情を抱いていたのですが、「性同一性障害(性別違和)」に対してはそんなふうに思いませんでした。

というのも、性同一性障害の場合は、パッと見は同性愛に見えたとしても、心は「男×女」の組み合わせだからです。だから「気持ち悪い」と思いませんでした。

なので僕は、自分が性同一性障害だと、無意識に、思い込もうとしました。

「僕は男で、男性が好きだけど、僕の心が女性だったとしたら、それはおかしいことではない」と思っていたからです。

だから、女性っぽくなるためにいろんなことをしました。

まず僕は瘦せていて、身体が角ばっていて男性的だったので、たくさん食べて、身体に丸みをもたせようとしました。

コンビニの菓子パンのカロリーが高いものばかりを買って、満腹になってもずっと食べ続けていました。すると、当然食べ過ぎで、吐きます。でも、吐くと痩せてしまうという不安に襲われます。なので、「吐いてはすぐに食べ」ということを繰り返していました。

一日三食ではなく、ずっと食べるようにしていました。

街を歩いていて、ショーウインドウに映った自分の顔が少しでも痩せて見えたら、すぐにコンビニに駆け込んでパンを補給していました。「痩せてはいけない、痩せてはいけない」と思って生活していました。

身体が丸みを帯びている間は、自分を少しでも許せたからです。

他にも、女性らしくなるために、髪の毛を伸ばして、女性の髪形をするようにしました。

髪の毛も美しくないと、女性っぽくないので、シャンプーとコンディショナーにはいつも気を遣っていました。

そして、化粧をするときもありました。

周りから見たら、変な髪形と変な化粧をしたチグハグな人間に見えていたと思います。

でも僕は必死でした。

本当は化粧や、女性用の髪形をなんてしたくもないけど、でも、そんなことをしている間は少しだけ「自分は存在してもいいんだ」と存在することの許しを得られたような気分でした。

このとき僕は、自分を「性同一性障害」だと思い込もうとしていましたが、たとえ自分が性同一性障害じゃなかったとしても、男の心を持った男だったとしても、女性よりの見た目になれたら、「男×女」の構図のなかに自分が少しでも近づけるので、そうなったら少しでも自分を許せるといった心境でした。

僕は「男×女」の呪縛のなかにいました。

自分を受け入れるために必要だったもの

そんな僕でしたが、いまでは自分が同性愛者であることを受け入れられています。

どうしてそうなれたかというと、大きくわけて、ある二つの出来事があったからです。

一つ目は、地元の「当事者会」に参加したことです。

自分と同じような人がたくさんいるのを、実際に目にして、そして話していくうちに、自分のなかの偏見に気付かされました。

自分以外の同性愛者に会ったことがなかったころ(あったことがないと思っていたころ)、「同性愛」といえば、なんとなく「特殊な何か」というイメージだったのですが、当事者会で出会った人たちと話すことで「あぁ、別に普通の人たちなんだな」と理解できました。

二つ目は、僕が同性愛者であることをなんとも思わない友人と、たくさん遊んだからです。

その友人には、僕が同性愛者であることを伝えていました。だから、僕は自意識過剰になっていて、例えば「もし僕の手や身体が、その友人の身体に間違ってあたったら、変な気があると勘違いされるかもしれない」と思って、身体があたらないようにいつも気をつけていました。

ある日、その友人とボウリングに行って、友人の投球をベンチで座って見ていました。そして投球が終わって返ってくると、他にも席があるのに、その友人は僕のすぐ横に座りました。そのときは僕がドキドキしてしまいましたが、「僕が同性愛者であること」をまったく気にしない友人の姿を見て、僕は僕を許せるようになっていきました。

その出来事は、とてつもなく嬉しい出来事でした。

そんな友人と遊ぶことで、僕は僕らしくいてもいいんだと、体感として理解できました。

おわりに

同性愛者であることを受け入れられたいまの自分でも、ときどき受け入れられなくなる瞬間はあります。

そのことを書いた記事もあるので、興味があったら読んでみてください。

ちなみに同性愛のことを書くのは勇気が必要になるのですが、これからはもっと自己開示して書いてみようと思うので、よかったらまた読んでみてください。

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著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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