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【じゃんけん】非日常は手のひらでつくれる、日常を冒険にかえるゲーム

おんなじ毎日を繰り返していませんか?

「別にいまさら、おんなじ毎日でいいよ」と突っ伏したくなる心に、一滴の潤いを与えてみませんか。

僕は大人になるにつれて、子供の頃のような純なトキメキを少しづつ忘れていっています。それはそれで受け止めているのですが、「もう少し日常にトキメキが欲しい。何かないかな」と考えて、あるゲームを発明したので、それを紹介します。

もくじ

ゲーム紹介

  1. 二人で散歩をする
  2. 別れ道に出たらじゃんけんをする
  3. じゃんけんに勝った人の方角にある道を選んで歩く
  4. それを繰り返す

これだけです。

このゲームのなにが面白いかというと、「普段の自分じゃ辿り着けない場所に、行ける」ということです。もちろん、「心理的に」辿り着けないという意味です。

物理的には、ほぼ全ての道を選べて、ほぼ全てのスポットに辿り着けるはずなのに、実際には何故かそうならない。いつも同じような道を歩き、意識的に道を選び、避け、無意識的に道を選び、避ける。こうやって「おんなじ毎日」の土台が完成します。

「見えるのに見えない」「あるのに辿り着けない」そんな心理的な盲点を覆すために、意識や無意識を捨てて、「じゃんけん」という運命に身をゆだねる。そしてその結果、決して辿り着くことのできなかった「心理的な秘境」に辿り着く──。

そして、その「秘境」に辿り着くまでにある、普段なら選ばない道の新鮮さが、この冒険を盛り上げてくれる。道なんていくらでもあります。ということは、「冒険」も「秘境」もいくらでもあるということです。

実際にやってみて

これまで、二人の友人がこのゲームに協力してくれました。

一人目とは、田舎道で、そして二人目とは、それなりに複雑な街中でやりました。

田舎道でやったときには、「こっちの道には何もなさそう」と僕も相手も言っていました。ですが、じゃんけんで「こっちの道」に進まないといけなくなって進んでいると、立派な神社を発見しました。大きな樹木に隠されるように存在していた神社に辿り着けたのは、「こっちの道には何もなさそう」という人間の想像の限界を、じゃんけんという「空気を読まない絶対的な存在」が突き破ってくれたからです。

そして、二人目の友人と街中でやったときは、二人とも「なんとなく行きたい方角」がありました。ですが、じゃんけんがそうはさせてくれませんでした。街中は碁盤の目のような道のつくりになっていたので、二人で同じ場所を、何度もぐるぐる回るという現象が起きました。

「あぁ、あっちに行きたいのに」「僕たちは、なにをやっているんだ」という思いが出てきました。ただそれが、楽しかったです。

大人の方で「道に迷ったわけではなくて、行きたい場所があるのに、同じ場所をぐるぐるして行けなかった」という経験がある人はいますか?

かなり少ないと思います。

この「無駄」な行為を、一生懸命やっているときに、その面白さや楽しさを感じることがあります。

無駄の存在

子供のころ、僕たちは自分でルールを作り、世界をゲームに変えて遊んでましたよね。

例えば、「白線の上だけを歩かないとしんでしまう」とか「きれいな十円玉を手に入れるために、自動販売機に汚い十円玉を入れて、おつりのレバーを回して、きれいな十円玉が出てくるまで、ひたすら繰り返す」とか。

そのような行為は「無駄」でしかないですよね。

でも、熱中していましたよね。

あの時の「純粋に込みあがってくる感情」に、「意味がない」とか「無駄だ」とか「役に立たない」などの社会的な価値感を貼り付けられて、僕たちは大人になってきたのだと思います。

このゲーム、やってみませんか?

大人になり、全てのものごとに「意味」が貼り付けられたこの世界観を覆すということは、かなり難しいと思います。

ですがその世界に、じゃんけんをすることで、一滴の潤いを与えてみてはどうでしょうか?

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著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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