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【一貫性の罠】本気で生きる日とグダグダな日、その繰り返しが人生を彩る

僕だけではないと思うのですが、接する人や場面によって、自分の態度や反応が微妙に変わります。

その自分の態度や反応の変わりようを、自分で客観的に振り返ったとき、とても恥ずかしく思ったりします。そして一貫性をもたせようと、低いレベルで統一しようとすることがよくあります。

一番無難で、自分のプライドも傷つかない態度に統一してしまいます。

でも人や場面によって、自分の態度や反応がかわるというのは、ごくごく自然なことだと思います。

(ちなみに、いま話したのは、相手が一人だけの場合です。自分で自分の、誰も知らない今日一日の僕の態度を振りかえったときに感じる恥ずかしさの話です。相手が二人以上いる場合は、相手の気持ちがあるので、態度に一貫性をもたせるようにしています。)

そして、「今日一日を本気で生きる」「一瞬一瞬を大切に生きる」といったことや、「なにかを頑張って継続する」といったことも、一貫性というものに縛られているがゆえに、より難しく感じてしまうのだと思います。

「一瞬一瞬を大切に生きる」というのは、「言葉のとおり、一瞬一瞬なのか」といわれると、僕を含め、多くの人にとって、それはちょっと難しいんじゃないかと思います。

そこにこだわるのではなく、残りの人生が例えば何年かあったとして、そのうち「一日でも多く」本気で生きた日があったほうが「自分を誇らしく思える」という話だと、僕は捉えています。

やはり人間は、一貫性というものに縛られているんじゃないかと思います。

「本気で生きようとして、今日はそれができた」

でも、次の日はなんとなく、ぐだーっとしていて「やっぱり、そんなの無理だよ」と思う。そして、人生に一貫性を持たせるために、無意識に、ぐだーっとした自分で日々を統一しようとする。

あの日は真剣な気持ちに満ちて、前をキリっと向いて胸を張って歩き、自分の想いを伝え、勢い余って恥をかいたりしていたのに、「今の自分ときたら…」と今の自分にあの日の自分を持ってきて、「なんだか、自分一人で勝手に、浮いたり沈んだりしている。恥ずかしい。何をやってるんだろう」と、自分をなんとなく恥ずかしく思う。

でも、それでいいんだと思います。ぐだーっとする前日は、確かに本気で生きていましたよね。

そして、グダグダしている日々の連続の中で、内省を始め、また本気で生きようと立ち上がろうとする。その繰り返しの中で、一日でも多く真剣に生き「ようとした」日があった事実が、自分を輝かせる

そんなに自分を統一しようと、整えようとしなくていい。

あっちにいったり、こっちにいったり、経験をしようと殻をやぶったり、もう嫌になって殻に閉じこもったり、いろんなことをしながら、終わってみたら、なんとなく、そんなことも全て穏やかな一枚の風景画のように見えているのではないかと思います。

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著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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