はじめに
僕は34歳の同性愛者(ゲイ)です。
19歳のときに母親にはじめてカミングアウトをし、それ以降は関わる人全員にカミングアウトをして生きてきました。
自分が同性愛者だと気付いたときの強烈な葛藤も乗り越えて、いまはパートナーと平穏な日々を暮らしています。
それでも、自分が同性愛者だということを受け入れられないときが、いまだにあります。
同性愛者である自分を完全には受け入れられない
パートナーとキスをしたり、ハグをしたりする瞬間に「自分たち、もしくは自分が気持ち悪い」という感覚が、瞬時に湧き上がることがあります。
二人だけしかいないその部屋に、赤の他人が立っていて僕たちを見ながら気持ち悪がっているという想像がとめられなくなります。
自分たちの部屋は「最後の砦」ともいえるプライベートな空間のはずなのに、その空間でさえ完全なプライベートではないという感覚が時々湧き起こり、不安な気持ちになります。
でも、もし僕が異性愛者だったら、そんな同性愛者に対してこういう疑問が湧くんじゃないかと思うんです。
「同性愛者であることは生まれつきなのに、どうして自分を受け入れられないの?」
学生時代
僕は子供のころ、「小学校」と「中学校」と「高校」に通っていました。
別に学校に限らずですが、社会で生活をしていると、「同性愛者は気持ち悪い」というメッセージがあちらこちらに散りばめられていて、実際にそういう言葉もよく飛び交っていました。
「同性愛者は気持ち悪い」ということは学校では当たり前すぎて、みんなが無意識に認識していたことだと思います。
僕も例外ではありませんでした。
僕も「同性愛者は気持ち悪い」と思っていました。
自分がそうであるとは知らずに…。
自分を拒絶する
そんなふうにして、クラスにいた他の多くの異性愛者と同じように「同性愛者は気持ち悪い」という価値観を、一緒に育てていきました。
でも、そうやって出来上がった価値観は、他のみんなとは違い、自分を全否定するものでした。
僕は高校を卒業したあとに自分が同性愛者であると悟りました。それと同時に、いままで「自分」として生きてきた自分が、自分ではないことに気が付きました。
僕は自分を拒絶しました。とてもじゃないけど「気持ち悪くて」、受け入れるなんてできませんでした。
「自分は醜い」「こんな気持ち悪い自分は存在してはならない」と、自分を全否定することだけに時間とエネルギーを費やしました。
自分を否定している間は、「正しいことをしている」と、苦しい中にも若干の安らぎを得られたからです。
でも、それは大きな副作用を伴いました。
自己否定の副作用
その副作用とは、この記事の冒頭に書いたことです。
パートナーと幸せな二人だけの時間を過ごしていても、過去に自分で自分を痛めつけた「自己否定」が第三者の目として蘇り、僕を不安な気持ちにさせます。
ちなみに、「同性愛」や「ゲイ」という言葉を見ることにも、いまだに抵抗を感じます。
こうやって記事を書いているときも、「同性愛」とキーボードを打つたびに、気合を入れて打っています。消してしまいたくなるからです。
そして今回のような「同性愛」に関する記事を書くことにも、抵抗を感じています。
おわりに
それでも今は、自分が同性愛者であると気付いたころに比べたら、格段に自分を受け入れられています。
世の中も昔とは違って、少しずつ生きやすい社会になってきていると思います。
僕も、いつまでも自分の子供時代にとらわれずに、新しい時代に自分をアップデートさせていきたいです。
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