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【母とのアフターストーリー旅行記 ♯1】母と東京で再会&自分の気持ちの揺れ動きに困惑する

東京のビル群

僕の生い立ちの記事を書いたことがあります。

そのなかで、母も僕も精神疾患にかかっており、家の中はめちゃくちゃだったことを紹介しました。

あれから10年が経ち、母はよいパートナーと再婚することができて、体調も安定しました。そして今回一緒に旅行にいくことにしたので、その様子を記事にしました。

この記事は旅行記というよりも、母親との出来事に焦点をあてた記録になっています。なので、下に貼ってある関連記事を読んでからじゃないとあまり面白くないかもしれません。

もくじ

人生初東京の母

母は広島県に住んでいる。

母は最近のテクノロジーについていけないので、飛行機のチケットの買い方も乗り方もわからない。電車で来ようにも乗り換え方がわからない。なので、広島→東京の夜行バスを予約していた。

そして、東京八重洲のバスターミナルで朝7:00に母と合流した。

テレビ電話でときどき顔は見ているけど、会うのは久しぶりだった。73歳だけど、見た目も前回あったときと特に変わらなかった。少し白髪が増えたくらいだった。そして、昔とは違って表情が穏やかで笑顔もみえる。

このまま自宅の栃木県まで戻ってもよかったけど、「せっかく東京にいるんだから」ということで、東京駅の顔を見にいった。

ニュース番組のエンディングでよく流れる、レンガ造りのところだ。

母の感想は「思ったよりも安っぽいね」だった。

僕もそう思った。ちなみにあとでフィリピン人のパートナーに聞いてみると、彼も同じことをいっていた。

世の中の人全員が知っているパスワードを僕だけ知らずに生きてきた

栃木県の自宅まで帰ろうと電車のアプリをひらいて、乗り換えをしていた。

でも、違う場所に進んでいることがわかった。なので、また元の場所に戻り、どの電車に乗るか探すけど、わからない。

だから母が駅員さんに聞きにいって、正しい電車がどれなのかわかった。

僕は人に聞くのが嫌だった。

普段なら、多少勇気がいっても聞けるけど、このときは全身の毛が逆立っているような気分だった。

そして電車を待っている間、母が昔の話をし始めた。

昔、僕が母と一緒に精神病院のデイケアに通っていたときの、そのデイケアのスタッフの話だ。

そのとき僕は怒りが湧いて、母親を怒った。

「昔の話なんかしないでくれ。あの頃は誰も僕のことを理解してくれなかった」「みんな、僕が母を苦しめる厄介者だとしか思ってなかったんだ」と怒りが収まらなかった。

普段はパートナーと幸せな生活を送っているので、負の感情にはフタがされている。だけど、このとき、そのフタが少しはがれ、自分の劣等感や無力感がありありと感じられた。

電車のプラットホームに立って電車を待っている人がいる。階段をのぼってこちらに向かっている人も、ベンチに座ってスマホをさわっている人もいる。

いろんな人がいるこの世界で、僕は誰にも到達することができない。

世の中の人全員が知っているパスワードを僕だけが知らずに生きているような無力感を、吹き抜けのプラットホームの上で感じていた。

パートナーのソーマ&母&僕の新しい家族の形

パートナーのソーマが仕事に行く前におでんのスープを作ってくれていたので、僕と母で残りのおでんをつくる。

そして、ソーマが仕事から帰ってきた。

「お母さん、お久しぶり!元気ですか?」とソーマがきく。「うん、元気よ!ソーマ君は?」と母が返す。

そのあとは三人で食卓を囲んで、話をした。

母とソーマが会うのはこれで、4回目くらい。

母はまったく英語がしゃべれないので、毎回僕が通訳をしていた。でも、今回はソーマの日本語力が格段に上がっていたので、母が「ソーマ君、日本語上手になったねぇ…!」と驚いていた。

ソーマは「いえいえ、そんなことないです!」と定番のジャパニーズスタイルで返す(笑)

僕は小さいころから「楽しい家族」というものをあまり経験してこなかったので、「僕の新しい家族の形」に心が温まった。

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著者

栃木県在住の34歳。
34年間住んでいた愛媛県から、栃木県に引っ越したばかり。仕事もやめて、無職になる。同性愛者・躁うつ病患者(現在は寛解している)。趣味は登山。フィリピン人のパートナーと生活しながら、社会の壁を乗り越え、楽しい日々を送るため、人生をサバイバルしている。

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